杵築紅茶のお話 前編

 松山 意佐美氏は戦後、朝鮮から引き上げ大分県杵築市で開業した医師でした。
周囲の農村の貧しさに心を痛めた松山医師は、「豊かな村づくり」を念願し、私財を投入して地元産業として茶栽培を思い立ち、往診の道すがらあらゆる機会をとらえて人々にその有利性を語り、ついに1956年に組合結成にこぎつけました。

 紅茶を有望とみて紅茶有限会社がつくられ、1962年に初めての商品ができました。
少しずつ収量も増え、生産も軌道に乗り、1964年には全国品評会で一等を獲得し、翌年の1965年には一等一席農林大臣賞を受賞しました。

 ところがその後、政府が紅茶の輸入自由化を発表しました。世界の紅茶が日本国内にゆたかに出回るようになり、それに追われるように国産紅茶が店頭から姿を消すまでに長い時間は掛かりませんでした。
こうして、杵築における紅茶栽培は苦い記憶とともに一旦途絶えます。

果たして、松山医師の努力は無駄に終わってしまったのでしょうか?

後半へ続く